父の遺言を果たして、初めて父を知った
『「ガダルカナル島の戦い」帰還兵の息子』
今回の著者メディアは、いつもとは少し違います。
著者との出会いを書くことができません。
著者は、私の父、釣部二郎だからです。
父は第二次世界大戦中、ガダルカナル島の戦いに参加し、生還しました。
私が子どもの頃から、父はよく戦争の話をしていました。
酒を飲むと声が大きくなり、
「今日、何月何日は、どこにいて、何をしていた」
と、何十年も前のことを昨日のことのように話す。
私は何度も同じ話を聞きました。
原稿を書きながら、こんな表現をしています。
「父の回想は、何年経ってもガ島の戦いから更新されていなかった。」
それほど、父にとってガダルカナル島での体験は大きなものだったのでしょう。
しかし、息子である私は、父の話を聞いてはいても、本当の意味では父のことを分かっていなかったのだと思います。
父は2007年、89歳で亡くなりました。
最期まで繰り返していた言葉があります。
「俺が死んだら、遺骨をお婆ちゃんのお墓と戦友の眠るガ島に散骨してほしい」
ただし父は、「無理なら沖縄でも、千葉や神奈川の海でもいい。太平洋とガ島はつながっているから」とも言っていました。
それでも私は、近くの海に撒くことができませんでした。
父の骨は、長い間、私の部屋に置いたままになっていました。
そして2017年。
父が亡くなって10年が経った頃、いくつかの出来事が重なり、私は父の墓参りに行きました。
墓石を掃除しながら、ふと、
「そろそろどうだ?」
そんな父の声が聞こえたような気がしました。
私はすぐにわかりました。
「俺の骨をガ島へ散骨してもいいのでは…」
その夜、旅行サイトを調べると、クリスマス前にガダルカナル島を巡るツアーがありました。
私は行くことを決めました。
妻と一緒に、父の遺骨、父が好きだったサッポロビール、軍服姿の父の写真を持ってガダルカナル島へ向かいました。
そして、一木支隊が壊滅したイル川河口に立ちました。
そこは、父から何度も聞かされていた場所でした。
中学生の頃、私は父に一度だけ、
「親父は、戦争で人を殺したことがあるのか?」
と聞いたことがあります。
父は答えました。
向こうから弾丸が飛んでくる。
前も横も後ろも戦友が倒れていく。
撃ち返さなければ、自分が死ぬ。
「だから、俺も撃ったよ。当たったかどうかは、分からない。戦争っていうのはそういうもんなんだ」
そのときの父の表情を見て、私は二度とこんな質問をするまいと思いました。
その場所に、70年以上の時を経て、私は父の遺骨を持って立っていました。
父の写真を置き、ビールと線香を供え、散骨しました。
「一木支隊の皆様、釣部人裕、只今、父釣部二郎を連れて参りました」
そう心の中で言って、手を合わせました。
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すると、突然、涙が出てきました。
自分でも不思議でした。
父は生きて帰ってきた。
だから私が生まれた。
悲しいわけではない。
なのに、涙が止まらなかったのです。
そして思いました。
ここには祖国に帰れなかった人たちがいる。
その人たちは、どんな思いで死んだのだろう。
そして、生き残った父は、どんな思いでその後の人生を生きたのだろう、と。
そこから、私の中で父の言葉が少しずつつながっていきました。
父は戦争の話をしても、ほとんど泣きませんでした。
ただ一度、親友の最期を話したときだけ、淡々と涙を流しました。
ガダルカナル島から撤退する途中、その親友は歩けなくなりました。
父は肩を貸し、「一緒に帰ろう」と励まし続けた。
しかし、ある朝、親友はいなくなった。
直後に銃声が聞こえました。
自決していたのです。
父は、まだ温もりの残る親友を抱きながら、「俺を生き残させるため……」と泣き崩れたといいます。
埋葬することもできず、父は再び歩き始めました。
私は現地のジャングルを見ながら思いました。
父が何十年経っても戦争の話をしていた理由は、単に昔話をしたかったからではない。
自分だけが生きて帰ってきた。
その事実を、父はずっと背負っていたのではないか。
そして、父についてもう一つ分かったことがありました。
父は帰国後、カトリックの洗礼を受けています。
ところが、熱心に教会へ通うわけでもありません。
わが家には仏壇とマリア様が一緒にありました。
正月にはマリア様にもお雑煮やお神酒を供える。
子どもの私が不思議に思って聞くと、
「神様はケンカしないから、いいんだ」
父はそう答えていました。
ガダルカナル島へ行って、その意味が少し分かりました。
撤退する日本兵たちを、現地のカトリック教会が助けていたのです。
食事を与え、衰弱した兵士を休ませ、亡くなった兵士はシスターたちが丁重に葬った。
父もそこで助けられた可能性が高い。
だから父は、宗教そのものではなく、そこで自分たちを救ってくれた「人」に感謝していたのではないか。
私は初めて、父という人間が少し見えた気がしました。
父は、私が結婚するときにも、強烈な言葉を残しています。
そして同居してからは、
「戦争になったら、釣部家末代の恥と言われてもいいから、家族を連れて逃げろ。絶対に戦争に加担するな」
とも言いました。
当時の私は「大袈裟だな」と思っていました。
でも、父が歩いたジャングルに自分が立ってみて、その言葉の深さが初めて分かりました。
そして、父がなぜ「俺の骨をガ島に散骨してほしい」と言い続けたのかも。
父は戦友のもとへ帰りたかった。
それだけではなかったのかもしれません。
「俺のことを知りたかったら、ガダルカナル島へ行け」
そう息子である私に伝えていたのではないか。
私はそう思うようになりました。
帰国したとき、妻が私に言いました。
「あなた、お父さんの思いを後世に残す義務があるんじゃないの。本にして残さないと」
父も生前、こう話していました。
「死んだものは語ることはできません。生きた我々が語らなければ……」
そして、「再び戦争の起きない時代にするために、お前が少しでも貢献してくれたら、嬉しいよ」と。
この本を書いた理由は、ここにあります。
父の戦争体験を美化するためでもありません。
戦争を知識として説明するためだけでもありません。
父から受け取ったものを、次の世代へ渡すためです。
私は出版社をやっています。
多くの著者の思いを本にしてきました。
しかし、その原点をたどっていくと、私にとって最も身近なところに、「残さなければ消えてしまう言葉」がありました。
それが父、釣部二郎の言葉でした。
私から見た父を一言で言うなら、「生き残って、語り続けた人」なのだと思います。
そして私は、その息子です。
父の遺言を果たすためにガダルカナル島へ行き、そこで初めて父を知りました。
父が亡くなってから、10年後のことでした。