■教育で走らせて、法律で裁く――そのやるせなさについて
■教育で走らせて、法律で裁く――そのやるせなさについて
今回のテニス部の事故報道を見ていて、どうしても拭えない感覚がある。
やるせない。
何がやるせないのか。
事故そのものだけではない。
報道の仕方だけでもない。
「語られ方が途中で変わること」
これが一番引っかかっている。
昨日までは教育の話だった
現場は、普段こうやって動いている。
生徒のためにどうするか
試合に出すかどうか
チームとしてどうするか
教育の論理で判断している。
私も高校で部活動をやっていたから分かる。
無理な日程を組む
長距離を移動する
教員が運転する
珍しい話ではない。
本当は分かっている。
危ない
無理がある
きれいな形ではない
それでもやる。
やらないと回らないからだ。
つまり現場は、
教育論と現実の中で折り合いをつけながら動いている。
事故が起きた瞬間、法律の話になる
ところが、事故が起きた瞬間に何が起きるか。
誰が責任を取るのか
過失はあったのか
管理体制はどうだったのか
一気に法律の論理に切り替わる。
ここで、現場はこう感じる。
「そのルールなら、最初から言ってほしい」
昨日まで許されていた運用が、
今日から「あり得ないこと」になる。
ルールが後から変わる。
これが、やるせなさの正体だと思う。
問題はどこにあるのか
この話は、
教育が悪いのでも
法律が厳しいのでもない
「使っている論が分かれていること」
運用は教育論
責任は法律論
ここが繋がっていない。
だから現場は、
「教育で走らされて、法律で裁かれる」
この構造の中にいる。
現場は分かっている
誤解されたくないので言っておく。
現場は無知ではない。
危険だということも
無理があることも
本当は良くないことも
分かっている。
それでも止められない。
他校もやっている
生徒を出したい
機会を奪いたくない
教育の論理と現実が絡み合う。
そして事故が起きる
そして、
「問題だった」と言われる。
正直に言えば、
やるせない。
ではどうすればいいのか
理想論ではなく、ここははっきりさせる必要がある。
「どの論で運用するのか」を最初に決めること。
法律を基準にするのか
教育の範囲に留めるのか
ここを曖昧にしたまま進めないこと。
でなければ、
また同じことが起きる。
今回の事故と報道。
やるせなさの正体は、
事故そのものではない。
「教育で走らせて、法律で裁く」というズレである。
このズレを直さない限り、
現場はまた同じ場所に立たされる。
だからこそ、言っておきたい。
「そのルールなら、最初からそう言ってほしい。」
これが、現場にいた人間、私のの正直な感覚だ。
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