LBGT問題、差別と人権、民放改正と憲法改正

◆LBGT問題、差別と人権、民放改正と憲法改正

 

あくまでも、現時点での私見です。これから変わる間も知れません。

LBGT問題は、発言しにくいと思っている。
差別していると思われるのではないか?と懸念するからである。
私は、差別と区別は違いと思っている。公正と平等も違うと思っている。

LBGTの方が、人権的に、差別されるのはおかしいと持っている。
でも、生きやすいように区別されてもいいと思っている。
法律改正については、民法改正まで、憲法改正までしなくてもいいと思っている。

マスコミ報道などを観ていて、疑問があるというか、私の疑問を解決してくれている記事には、今のところ当たっていない。

 

人類は哺乳類であるから、言ってみれば、憲法は哺乳類憲法であり、国家は哺乳類国家である。

人類は、哺乳類であるために、雄雌の区分がなされ、雌雄による生殖によつて子孫を妊娠出産して生み育てるのが本能のしくみである。

だから、婚姻というのは、男女(両性)間のものであることは、哺乳類憲法からして当然のことであり、同性婚なるものは、契約に過ぎないと考える。

 

人類は、XとYの染色体によって、雌雄が区別され、その中間にある個体が多く存在しうるのは、遺伝子構造が持つエラーである。

それがあることを前提に、本質的に性差が区分できる個体間での生殖により人類の種族は保存されてきた。

そして、このエラーの事象が増えれば増えるほど、【人類保存の本能が劣化】して行くのではないか?

そして、もう一つ言えることは、このやうなエラーによつて生殖がなされずに人類が減少し続けることは、地球に負荷が掛かりすぎる人口爆発が却つて人類の飽和絶滅を招くことを遺伝子が本能的に読み取つて、性差の区別ができない個体が生まれて人口減少を生じさせ、飽和絶滅を防ごうととする現象ではないか?とまで思う。

 

ところが、昨今では、男女の性差による区別すら否定する。
区別と差別とを同視し、男は男らしく、女は女らしくといふ言葉自体がポリコレ(ポリティカルコレクトネス:差別的表現を排除し中立的な表現や用語、動作を用いること)によって禁句となり、区別と差別との違ひを認識できないのではないか?

DNAのエラーによつて生まれた存在は、その不自由さと不便さについて「保護」する必要はあるが、それを哺乳類の正統性の地位を認めることは、人類の滅亡になっていくのではないか?

これからは、銭湯や温泉などで、男湯と女湯の施設しかなく、LGBT用の施設がない営業は、差別容認の違法営業だと言つて批判され、営業停止を求められる時代になってしまうのではないか?

LBGTだって、いくつも種類があるのである。

人類は哺乳類であつて、男女の区別があるのが当然で、このことを批判するのは、反哺乳類主義の社会を目指す思想でがないのか?

などと思うのである。

私は何を思うのかは以下の通りである。

本質論が欠如しているのではないか?
人間は哺乳動物である。
種の保存は、哺乳動物の本能ではないのか?
DNAのコピーのミス?→本流ではない
人類のDNAの劣化を防ぐ必要がある
だからといって、差別はしていなけない。
なので、民放改正で対応すべき。

これからの疑問にだれか、答えてほしい

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