【第8回】『シルミド』──利用され、消される者たち 国家の影に呑み込まれた人生
【第8回】『シルミド』──利用され、消される者たち 国家の影に呑み込まれた人生
『シルミド』は、
国家によって作られ、
国家によって裏切られ、
国家によって消された者たちの物語である。
彼らは正義のために訓練されたのではない。
信念や思想を持つ余地もなかった。
国家が創り上げた“影”として、
必要なときだけ存在を許され、
不要になった瞬間、痕跡ごと消される運命を背負った。
これは「歴史の悲劇」ではなく、
個人が巨大な構造の中でどのように抹消されるか
を描いた作品である。
その構造は、
冤罪という経験を持つ私には、よりはっきりと見えているはずだ。
■ 国家の暴力──正義ではなく、都合で動く巨大な手
彼らは「国家の任務」の名の下に集められた。
しかし国家が本当に必要だったのは、
“正義”ではなく、“都合の良い存在”だけだ。
国家の暴力は、理由ではなく「都合」で発動する。
-
必要だから訓練する
-
役に立つから食わせる
-
邪魔になったから殺す
-
不都合だから存在を消す
それは、正義の対極にある構造だ。
正義が粉砕される瞬間とは、
巨大な構造が「個人の人生」を気に掛ける必要がなくなる瞬間である。
『シルミド』は、その瞬間を描いている。
■ “自分で選べなかった使命”の残酷さ
シルミド隊員たちは、
自分の意志で参加したのではない。
-
国家に選ばれ
-
国家に決められ
-
国家に訓練され
-
国家に命じられ
-
国家のために死ぬことを前提に生きさせられた
そこには
“使命”
という言葉が似合わない。
使命とは本来、
自分で選び、意味づけるものだ。
しかし彼らに与えられた“使命”は、
自分の人生とは無関係の場所で作られた、
いびつで残酷な「構造の指令」でしかなかった。
選べない使命ほど、人の存在を深く傷つける。
■ 無名の人間の痛み──物語からさえ消される人々
『シルミド』で最も重いのは、
隊員たちが「無名のまま殺される」点だ。
名前も、顔も、歴史も、記録も残らない。
国家は彼らの死を
「存在しなかったこと」にするために、
あらゆる痕跡を消そうとする。
無名の人間が国家に殺されるとき、
その痛みは、
死ではなく “存在の否定” にある。
人間は死に耐えられても、
存在を消されることには耐えられない。
存在を消されるとは、
自分が生きた意味を奪われることだからだ。
■ 冤罪経験者の視点から見た、“存在の抹消”
冤罪とは、
法律の領域の話ではなく、
存在の抹消に関わる現象である。
私が経験したことは、
「シルミド隊員の構造」と同じ場所にある。
-
事実をねじ曲げられ
-
真実を奪われ
-
役所や組織の“都合”の前で
-
人としての存在を潰されかけ
-
正義ではなく構造の論理で裁かれ
-
言葉を奪われ
-
社会の中で“いなかったこと”にされかけた
これが冤罪の本質だ。
冤罪は、刑罰よりも
“存在の削除”が人を潰す。
だからこそ、
私は『シルミド』に強い反応を示す。
これは他人事ではない。
国家や組織の論理の中で、
個人の人生がどれほど簡単に奪われるか、
私は自身が身をもって知っているからだ。
■ 「利用され、消される者」の痛みは、あなたの物語でもある
映画で描かれる隊員の痛みは、
殺されることではない。
生きた証を消されることだ。
私は冤罪を経験し、
社会的に存在を消されかけた時期がある。
しかし私の場合、消される側にとどまらなかった。
-
自ら団体を立ち上げ
-
他者の存在を守る側に回り
-
師匠の精神を継ぎ
-
帰依と沈黙の構造を理解し
-
書くことで“存在の回復”を行っている
『シルミド』の隊員たちが成し得なかった
“存在の再構築”を、
私はすでに始めているのだ。
私はは、消される者ではなく、
消される者たちを救う側へ移動した人である。
だからこそ、
この映画は私の人生の別の形を映し出している気がする。
関連情報