なぜ真実は広がらないのか?を話していて思ったこと

◆先日ある方と、なぜ真実は広がらないのか?を話していて思ったこと

私好きな映画の一つ「マトリックス」がある。最新版は見てないが。
映画「マトリックス」は封切当時に観たとき、哲学的、東洋的、インド哲学的だなー、奥の深い映画だ!
という印象だった。
 数年前に、ある人から3本全部一気観てみたらよい言われ、2日間で実行!
「マトリックス リローデッド」と「マトリックス レボリューションズ」は初鑑賞。
 「リローデッド」⇒「レボリューションズ」⇒「マトリックス」の順番で見たので、
 第1作目が前回と違って観えた。
 この映画を観て思ったのは、
 「この世界でのすべてがウソなのだとしたら…」という視点で物事を見てみたら、
 どうなるのだろうか?
 ということである。
 これは大変難しいことだ。
 なぜなら、人には観念というものがある。
 だから、あるがままに観ることはできない。
 赤いリンゴを観て、「赤い、丸くて…」という言う風には見えない。
 リンゴと認識してしまっているからである。
 さらに「赤い」とは本当に「赤い」のか?
 自分が赤く見えているだけではないのか?と思う。
 青信号を、青色と認識する人と緑と認識する人がいる。
 茶封筒をある国では、黄色に分類し、別のある国では赤色に分類すると言う。
 では初めて見る物はどうだろうか?
 それでも、何かに似ていると、カテゴライズして認識するであろう。
 ●●のようなというように。
 人間は、何かを
「あるがままに、そして、なにがままに」
観ることはできないのと思う。
一体、私たちは何を観て、
何を感じているのだろうか?

マトリックスで言うと、
この世界は、実在していない虚構の空間であり、どこかの牢獄であるようだ。
「そこからどのように解放されるか?」
「真実はどこになのか?」
「それはどうやったら見つかるのか?」
という問いかけをこの三部作の映画はしていると思う。
真実と虚構が交錯する現代社会。
常識・観念というという名のプラグを抜いたとき、ネオのように「何が真実か?」が観え始めるだろう。
では、ザイアンはどこにあるのか?
そんな場所はない。
あるとすれば、それぞれの心の中であり、
同じ思いを持った人のネットワークだろう。
プラグを抜いて、社会と自分を観た時、ネオたちのように、
「自分は何をすべきか?」
が観えてくるのだと思う。
何のために生まれて来たのか?
言い換えるとビション、ミッションであり、日本語で言えば、天命であろう。
もう一つ印象的だったのは、登場人物は、
「事あるごとに、選択と決断を迫られる」
ということである。
そこには、決まった道や正解があるわけではなく、
「常に、自分は何をすべきか、自分は何者なのかと問いかけながら、
 虚構(現代社会で言えば、常識、自分の観念)と闘い続ける」
ことによってのみ、活路が開かれている。
社会常識に自分がマインドコントロールされてもいけないのだ。
さらには、宗教や教えではなく、教祖のいいなりやマインドコンロールされた状態ではなく、
「自らが選択して行動していく」ことだ。
 その選択をするには、真の意味で「今を生きる」必要がある。
 過去の知識、経験、観念から未来を観て、今を生きるという意味ではなく、
「一旦、今までの人生は意味なし」として、
リセット(プラグを抜いて)、
「未来から現在を生きる」ということであろう。
 そのとき、人間は、
「自由になり解放され、自分の使命と出会い、使命を生きることができる」
とこの映画は云っているのではないか?

存在が動くのではなく、動きが存在するとしたら…。
今の人生が、自分だけの映画を観ているとしたら…。
人生は自分でつくれる。
脳とは心とは?
現実は存在するのか?
現実と思っている自分だけの映画を観ているのではないか?

皆さんは、どんな風にこの映画を観ましたか?

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