◆映画「フィールド・オブ・ドリームズ」その5 ~「やり遂げるのだ」~

◆映画「フィールド・オブ・ドリームズ」その5

~「やり遂げるのだ」~

 生前やり残したことをやりに来ているシューレスジョーと、このたびの人生で「やり遂げるのだ」と言って生きているレイ・キンセラ。
 彼らはともに、ビジョンの人です。
 そして、そのビジョンの人を一目見ようと思って集まってくる人は、この世に、無限にいることを象徴している。
 ビジョンというのを生きた時、今まで目に見えないものが見えるようになるのだろう。
 キンセラが、シューレスジョーの姿を見ることができたように。
 それは、ある意味で、ビジョンを生きていない人からみたら、不思議な光景。
キンセラが、トウモロコシ畑を刈り取って、野球場を作ったとき、まわりの人は、こう言いながら、彼を見ていました。
「どうかしてるわ」「せっかく植えたのに、バカな男だ」「氣がふれたんじゃないのか」。 

 ビジョンを生きると、他の人から見れば、変に見えるときがある。

 

 歴史を見ればわかる。
 ゴッホ、ピカソにしたって、著名な建築家、最初、みんな変人扱い。
 ネクタイにしても、この世で初めてネクタイをした人は変人。
 私は、この類の話になると思うのだが、世界で最も勇氣のある人は最初に
「なまこ」を食べた人だ、と思う。
 
 この世で、一番最初に「なまこ」を食べた人は、はたから見たら大変人だ。
 しかし、それらを必要とする人は、地球上に無限にいる。
 ゴッホは淋しい晩年を送りながら絵を描いて、わからないまま死んだかも知れないけれども、ゴッホの絵を一目見たいと思う人は、世界中にいる。だから一枚の絵が、数十億円もする。
 彼がビジョンを生きた人だから、彼の絵に多くの人たちが、その価値を求める。
 ビジョンを生きる人。それは、この世に生まれてきた目的をやり遂げる人。
 ビジョンを生きるためには、そのビジョンが何かをわからなければいけない。
 つまり、「それを作れば、彼がやってくる」の、「それ」とは何か、「彼」とは誰か。そのことをわかる必要がある。
 そしてそれが、私にとって「何」なのか、私にとって「誰」なのか、それと出会うということ。これが、ビジョンと出会うということ。
 そして、たとえあなたがビジョンと出会っても、あなたは苦痛をもっているから、まずそれを癒さなければならない。
 スーパーマンがビジョンと出会うわけではない。
 私たちは苦痛をもったままビジョンと出会うから、癒しが必要なのだ。
 それから、最後までやり遂げること。それが人生である。
 この映画は、そのようなことを訴えている、そんな氣がしてならない。

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