◆意味のない勉強と意味のある勉強

◆意味のない勉強と意味のある勉強

 

 最近あることがあって、今まで以上に、何としても、本質的なものを、新たな視点とか、そういうものをシェアしたい、正しく伝えたいと思うようになった。

 

 なぜかと言うと、マスコミやメディアは真実を報道しない、YOUTUBUなどの情報は、色々あって、玉石混交で誰のいうことが真実なのか、わからない、そういう人が多いのです。

先日も、ある大学のゼミに特別講師をした際に、学生の多くがこう言いました。
「はじめてためになる抗議だった。」
「これは、本に書いていない。」
「生きている情報だし、応用が利く」
「釣部先生、うちの大学でゼミを持ってくださいよ」

 

お世辞かと思ったら、そうではなかったみたいです。
ゼミの先生から、その後も学生がそう言っていたそうです。

うすうす思ってはいましたが、はっきり言って、大学生諸君や大学卒業生の皆さんのほとんどの人が、大学の授業に失望しているのではないでしょうか?

 

 その証拠に自分の母校の話をあんまりしない。
 聞かれても、「いやー、あの、たいしたことないんですよ」とか、「いやー、もう、あの、やっと卒業しただけですから」とか言って、触れたがらない人が多い。

 あの講義が良かった、面白かった、ためになった、あの教授はすばらしい!あの教授のあの研究が面白い、すごい!などという話をする人が殆どいない。

 

 なぜか?
 おもしろくないというか、つらいというか、行かなきゃよかったというか、損したというか。

 

 人の顔を見るなり「おまえ、どこの大学だ」と言う人はいますが、大学の名前を聞けば「おお、そうか」で終わりです。私の知る限り、よほど自己顕示欲が強い人でない限り、そこで何を学んだとか、どんな活動をしたとか、どんなライセンスを取ったとか、大学在学中に世の中にどれほど貢献したかとか、本を出したとか、有名になったとか、という人は、ほんの2%ぐらいしかいません。

 たとえば、大学在学中に弁護士の一部資格を取ったとか、公認会計士になったとか、それから、作曲で有名になったとか、プロになっていたとか、もう売れちゃって大学行く暇なかったよとか、本を何冊か書いてベストセラーになった、なんていう人は2%でしょうか。

 あとの98%の人は、挫折しているのではないでしょうか?

 
 世界のことはわかりませんが、少なくとも日本は異常ではないでしょうか?

 例えば、英語の試験。
入試英語というのがあって、入試のためだけの英語というのに、何年間も何年間も、皆さんはエネルギーを使って、やっているのです。

 そんなふうに、皆さんは異常な教育を受けている。全部が全部とは言いません。
 しかし、期待はしていない。
 要するに役に立たない。英語でスーパーで買い物ひとつできない。
 合格した人でも。入試のためだけのテクニックなのです。クイズみたいなものです。
 そんなの日常では、どうにもならないです。そこで、試験をなくしたらどうかと、学者の方が本当に、そこまで言う時代になってきたのです。ものすごく大きな変化が起きています。
 ちなみに、私は、生きた英語コミュケーション、ちよまる式を学んでいます。
 これは、マジ使えます。
 

 世界史だって、実は、英語以上ではないでしょうか。
 だから、世界史というのはどんなものかというと、皆さんご存じのように、暗記もの。 
 だから暗記が強いやつは、世界史をとって、ばかばかっと覚えて、それでテストが終われば忘れたらいい。というか、覚えていられない。

 なぜかというと、世界史の中心は、年号です。西暦何年に、どこの国で、こういうことがあって、そこの中心人物はこういうことだ。そして、そこの中心になっている都市の名前はこうだ。そういうことばっかりら。

 しかし、私は、それは邪道だと思っている。
 年号なんて覚えてどうするのですか。早い話が、何になるのでしょう。

 たとえば、自分の周りいる人の生年月日を、全部暗記しているからって、どうだっていうのですか。
 そういうことではないですか。何の役に立つわけですか。

 

 私は、1年間、特別免許で高校の世界史(選択性)の先生をやりました。

 私は、教室を図書館に移し、前の世界地図をはり、年表をはりました。

 暗記なしです。
 自分の大好きな参考書を、好きなだけもち込んで講義を受けたら、なぜいけないのか。 なぜ、暗記しなければいけないのか。
 勉強とは、知りたいと思うことを、一気に調べるだけのリハーサルをすればいいんじゃないのか。何で覚えておかなきゃいけないのか、と思っていたのです。

 で、私が思っていたのは、
 なぜ、その人は、その時代に、その場所で、どんな事件を起こしたのか?
そして、それが、後世にどんな影響を及ぼしたのか?

 それを学ぶのが、歴史だと思っているのです。

 何のために世界史をやっているのか?これだと思っているのです。

 上記のことやると、時代背景や生い立ちや、哲学が関係してくるのです。

 ただ、世界史=暗記もの、試験が終われば忘れたらいいんだ。
 だから社会人となっても、全部が全部、うろ覚えなのです。

 何の意味もないです。

 たとえば、日本史でもそうですよ。徳川十五代将軍の名前を、暗記でズラズラ言えたからといって、要するに、どうだっていうのですか。

 聖徳太子がどうの、大化の改新がどうの、西暦何年がどうのと、ワァーッと言えたからといって、何だっていうのでしょう。

 私たちが知りたいことは、聖徳太子とは何者なのか。どういう意図をもって、大化の改新というのをやらざるをえなくなったのか。やってどうなったのか。

 

 要するに、自分が、会社の社長をしたときに、大化の改新をやろうとしたとき、役に立つかどうかです。

 

 本当は、大化の改新なら大化の改新を自分なりにマスターしておけば、会社経営に絶対に役に立つわけです。役に立たなかったら、勉強した意味はないわけです。

 

 でも現実は、自分は役に立たないことを、4年間も、6年間も、9年間もしてきているのです。

 

 なので、何としても、本質的なものを、新たな視点とか、そういうものをシェアしたい、正しく伝えたいと思うんですよ。

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