◆学ぶと教える

◆学ぶと教える

 
「教育」と言う言葉について考えているのですが、
「教え育む」、「教え育てる」という考え方は
視点が教える側にある。
観点変更して、学ぶ側でみてみたらどうなるだろうか?
教えられる側は、「教え」として与えられた事について、
自分自身で学ばなければならないと思う。
そうすると、
「学んで育つ」といった言葉になるのであろうか?
「教える」と「学ぶ」の間に、やりとりがある、
「学育」というような概念(言葉)が必要ではないか?
とくに大学生や社会人ではそうではないだろうか?
ラクビ-やサッカーの監督と選手の関係をみていても、いいチームの時は、
「教育」と「学育」の両者がバランスよく機能しているように感じる。
自己教育力と表現していたが、それでは説明が足りないようだ。
「与えられる方には不満が残る」「与える方に優越感が出やすい」とよく聞く。
言う通りやっていればいいんだ!というのは、一方通行的な表現になる。
かといって、「自分で考えてやってみろ!」では、学びに来ている意味がない。
「教育」と「学育」の両者がバランスよく機能しているか否かを、
教える側も教わる側も意識するのがいいのではないか?

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