◆司法取引、弁護士に問われる「弁護士正義」とは
◆司法取引、弁護士に問われる「弁護士正義」とは
「(司法取引の)情報提供する側の被告人の弁護人は、どう対応すべきか、大問題になっている。弁護士倫理の問題もある。アメリカではどうなっているのか?」
これは、今年、2016年1月21日に行われたシンポジウム『日本版司法取引を考える美濃加茂市町とアメリカのイノセンス・プロジェクトの現場から』の最後の質疑応答の際に出た、日本弁護士連合会刑事弁護センターのある弁護士からの質問である。
司法取引
現在、「司法取引」の導入、取調べの可視化(録音・録画)等が行われている。
この「司法取引」とは、被疑者・被告人が「他人の犯罪事実」についての情報を捜査側に提供すれば、その見返りに刑事処分が軽くなるというものである。
弁護士が司法取引の「協議」と「合意」に関与することになる。
司法取引が導入されるかなか、
弁護士がこれにどう対応すべきか、その議論が十分になされているとは言えないと思う。
いや、議論が十分になされていないというよりも、
法務省としては
「司法取引の協議の時点で弁護士がその被疑者・被告人に立ち会うのだから、虚偽供述はない」
という前提に立っている。
しかし、そうだとは限らない。
このような話を弁護士にすると、その多くは
「そんなことになっているのか。大変な問題だ。弁護士正義をどう考えららいいのだ? 信義誠実義務をどう考えればいいのだ? ガイドラインはないのか?」
と、苦悩している現状があるようだ。
信義誠実義務と被疑者・被告人の利益
「信義誠実義務」とは、漢字が六つも並び、その意味はわかるようでわからない、難しい感じがする。
分かりやすい事例を紹介しよう。
――真犯人は妻だが、代わりに夫が出頭した。
子どもがいるため、妻の身代わりで自分が犯人だ主張する。
窃盗事件の弁護を受任した弁護士は、
依頼者である被告人からこのような事実を告げられる。
弁護士職務基本規程5条は
「弁護士は、真実を尊重し、信義に従い、誠実かつ公正に職務を行うものとする。」
と規定している。
とすると、このケースの場合、弁護士が信義誠実義務に従えば、「法廷では被告人の意思を無視してでも無罪を主張する」か「妻が真犯人なのだ」と主張することになる。
しかし、他方で弁護士職務基本規程23条は
「弁護士は、正当な理由なく、依頼者について職務上知り得た秘密を他に漏らし、又は利用してはならない」
と規定して弁護士に守秘義務も課している。依頼者が弁護士を信頼して打ち明けた「自分は犯人ではない」という「職務上知り得た秘密」を告げることは、守秘義務に反するのではないか、という問題が生じる。
司法取引において、弁護人が、依頼人である被疑者・被告人の証言する「他人の犯罪事実」が虚偽だと知ったとき、もしくは、虚偽ではないかと思いつつも、その証言内容によって、他人が逮捕、または、有罪になることが予想されるときに、弁護士として、どういう立場をとればよいのか。
黙っていれば、目の前の依頼人の利益にはなるが、第三者の冤罪に加担する可能性が出てくるのである。
なぜ、このような問題について、日弁連の中で議論が尽くされていないのか、考えられないことだ、という内実も聞こえてきた。
司法取引が導入されようとしている今、まさに問われているのは、そして、これから間違いなく弁護士に問われるのが「弁護士正義」だと。
「時は今 雨が下しる 五月哉」
私は、しばしば、この句を思い出す。
「時は今 雨が下しる 五月哉」
この句は、明智光秀が「本能寺の変」を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会(愛宕百韻)で、光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとされている。
「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐家出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。
あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
上記の説によると、この句は、下克上へのGOサインだったことになる。
市井の人である私にとっての下克上は、「冤罪のない社会の実現」であり、せめても「冤罪が減る方向へと向かう社会の実現」を目指して、冤罪加害者に対して、冤罪であったことを認めさせる挑戦である。
しかし、明智光秀は、「三日天下」であった。この挑戦における「三日天下」は、無罪を一件勝ち取ることかもしれない。それだけでも、何年もかかる大変困難な挑戦ではある。しかし、私は「三日天下」では、終わりたくない。
この挑戦には、弁護士の力が不可欠である。弁護士の力なしに、冤罪の構造を明らかにすることはできない。
これまで、冤罪被害の酷さは話されることはあっても、冤罪加害者が個人的に責任を追及されることは殆どなかった。
私は刑事罰を問うという意味ではなく、
【冤罪に加担した者は、何らかの処分を受けるべきだ】
と思っている。
結果責任である。
そうしないと、冤罪被害者の被った被害とのバランスが取れず、再発防止にもつながらない。
そして、実は、その【冤罪加害者の中に、弁護士が含まれるという事実もある】のである。
積極的に冤罪加害をすることはないであろうが、冤罪を教唆、幇助してしまう場合があるのである。
私は、25年近く、冤罪に向き合ってきている。
そしてわかったことがある。
それは、「弁護士正義とは何か」が問われなければ、どんなに法整備をしても冤罪はなくならない、ということである。
実は、ある事件をきっかけに、この「弁護士正義」というテーマについて、向き合ってきているのである。
お商売目的の弁護士に出会う度に、驚きと同時にこの現実に憤りを覚え、弁護士の正義とは一体何なのだろう、と自問自答してきたのである。
弁護人の最も重要な役割は「えん罪の防止」
私は、ある事件によって、様々な経験をすることになったが、その一つに、弁護人が「被告人の利益」という名目の下に、執行猶予、保釈という目先の利益を優先した結果、その依頼人の「利益」と引き換えに、他人を冤罪に陥れたという、いわば「弁護士による冤罪幇助」を目の当たりにしたのである。
私が知っているある冤罪事件では、主犯格とされた被告人が起訴され、被害者とされた人の長男が、被告人の共犯者とされ起訴された。
その長男の弁護人が、長男の「利益」の為に、虚偽供述を容認し、冤罪を幇助したのである。
しかし、長男が「利益」の為に虚偽供述をしていること、そしてそれを弁護人が容認していることについて、被告人の弁護人である二人の弁護士も知っていたのである。
その事実を知りながら、二人の弁護士は、それを全く止めることなく容認し、その結果、被告人一人だけが有罪になっている。
このように、弁護士が冤罪に加担する場合があること目の当たりにした。そして、それは決して、この事件に限ったことではない。冤罪に関する様々な事件を調べる中で、弁護士が冤罪加害者となっている事件が多数あった。
当時の私には、彼らが正義ある弁護士なのか、それとも商売目的の弁護士なのか、それを見抜く力がなかった。
後に、再審請求を準備している段階で、たくさんの弁護士と面談する中、通常審の弁護活動に疑問をもった複数の弁護士の方から「原審弁護人は何をしていたのか?」と問われた。
この段階になって、被告人に最も近い存在である弁護人に正義があるのかどうか、そのことで、刑事裁判が大きく左右される、ということを思い知ったのである。
それ以来、一体、弁護士正義とは何なのだろうかと、当時、弁護士の不正義を見抜けなかった自分への憤りと共に、大いなる怒りをもつようになったのである。そのような経緯があり、私はジャーナリストとして、冤罪のない社会を実現する市民活動に取り組んできているのである。
冤罪のない社会を実現しようとしたときに、当然、取調べの可視化や、検察の手持ち証拠のリスト開示などの法整備は絶対的に必要である。
そのことに異論はない。
しかし、ある意味、盲点なのは、被疑者・被告人に最も近い存在である弁護士が冤罪に加担するケースが往々にあるということなのである。
冤罪を生まない社会を実現するには、このことと向き合うことが必要不可欠なのである。このことを避けて、仮に司法取引が導入されれば、冤罪はより増加の方向に向かい、冤罪被害は、一層深刻な問題になりうる。
冤罪にあった者が、早い段階から正義ある弁護士と出会えればよいが、そうでなければ、取り返しのつかない結末になる場合がある。
冤罪は人間の尊厳を奪い、その人の人生、さらには家族の人生まで破壊する。そんな人生の一大事に、正義の弁護士と出会えるかどうか、運任せなのが現実なのである。本当にそれでよいのだろうか。
私は、先のシンポジウムに参加して、この書籍を緊急出版することを決意した。今、司法の現場では、まさに弁護士正義が問われようとしている。冤罪をなくするためには、弁護士正義が不可欠だということを、身を持って体験した私は、今こそ弁護士正義とはどうあるべきかを、この書籍を通じて問いたいのである。司法取引が導入されるのは時間の問題、それまでに十分な議論が必要なのである。
「被告人の利益」つまりクライアントの利益を優先さえすれば、他人が冤罪に掛けられて本当に良いのだろうか。
そもそも利益とは何なのだろうか。
被疑者・被告人は、閉ざされた空間での限られた情報の中で、検察による利益誘導を受けながら、自己の利益とは何かを正常に判断し、選択することができるのだろうか。
弁護士はその被疑者・被告人にインフォームド・コンセントを十分に行えるのだろうか。
いうまでもないが、刑事裁判の大原則は冤罪の防止、無辜の不処罰である。日本弁護士連合会のホームページにも、「弁護人の最も重要な役割はえん罪の防止です。」とはっきりと書いてある。「冤罪」という国家による著しい人権侵害が決して生じないように、憲法や刑事訴訟法が存在する。
クライアント(被疑者・被告人)の利益さえ守れば、虚偽供述だと知りながら容認してよいのだろうか。
別の誰かが冤罪に掛けられても、それは知ったことではない、本当にそれでよいのだろうか。
繰り返しになるが、「弁護人の最も重要な役割は、えん罪の防止」なのである。刑事弁護人が冤罪に加担した事件の一つとして、氷見事件がある。
この弁護人は否認する冤罪被害者に断りなく、被害者と示談をしてしまった。それに絶望した冤罪被害者は、公判では弁護人の言うがままに有罪答弁をして、有罪が確定してしまった。後に、真犯人が明らかとなり、再審無罪となったのだが、この弁護人の責任についは、日弁連は「うまく意思疎通及び情報伝達ができていなかった」として、弁護活動を一応批判しているものの、何ら具体的な処分をしておらず、極めて甘い対応と言わざるを得ない。
このような対応を日弁連が行っていて、本当に「弁護人の最も重要な役割は、えん罪の防止」を実現することができるのだろうか。人権侵害の最たるものである「冤罪」の防止を、第一義的にとらえるならば、当然、前述の弁護人には厳しい姿勢や何らかの対応策をとるべきであろう。
冤罪をなくする、それはできなくとも冤罪を減らす方向にする為には、刑事裁判について、原点回帰の上で、再定義する必要があると考える。
それは、刑事裁判の原則は「疑わしきは被告人の利益に」であり、絶対に冤罪を生まない、という固い決意のもとで、その前提の上で、真犯人の発見に努める、ということである。まずこのことを共通認識として、共有できるのかどうか。
それでもやはり、冤罪は生じる。それは人が冤罪を造るからである。冤罪加害者に視点を向けること、すなわち、少なくとも、冤罪加害者が行政処分などで、何らかの処分を受けるようにする。そのことで、人為的な冤罪をかなり防げるのではないかと考えている。
それでもなお、冤罪は起き得る。
そこで、救済措置を強化する。
再審への途を行きやすいものにする。
すなわち、再審申立人及び再審弁護人をサポートするシステムの構築が必要なのである。
もちろん、再審に関する刑事訴訟法の制定は不可欠である。
正義ある弁護士が、再審受任に伴う経済的な負担をできる限り軽減され、冤罪被害者に寄り添い、大いに活躍できることが必要だと考えている。
その為の構想として、私は関東再審弁護団連絡会を設立した。
素朴な正義感から、数名の福岡弁護士会や大分弁護士会の弁護士が権力に対峙し、当番弁護士制度がはじまり、冤罪の無い社会の実現に向け、活動が動き出したように、再審制度に対しても、新しい動きをつくり出したいのである。
さあ、関東再審弁護団連絡会から再審制度に対する、下克上が始まる、と言いたいところだ。
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