勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし ——「勝ち方」ではなく「負けない構造」をつくる思考
◆勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし——「勝ち方」ではなく「負けない構造」をつくる思考
私の好きな言葉のひとつに、
野村克也監督のこの名言がある。
勝ちに不思議の勝ちあり
負けに不思議の負けなし
自分がテニスの監督をしていた頃、この言葉に強く感銘を受けたことを今でも覚えている。
だから私は、「どうやったら勝てるか」よりも、
先日、興味深いことがあった。
この言葉を、わずか1ヶ月の間に三人から別々に聞いたのである。
以前から気になっていた言葉であったが、改めてクローズアップされた。
この言葉を深く読んでいくと、こういう見方ができる。
- 勝ちにもミスは含まれている
- 負けには必ず原因がある
つまり、
勝ちにも負けにも「負ける要因」は存在している
ということではないだろうか。
「勝ちに不思議の勝ちあり」とは、単なる運の話ではない。
本来は負ける要因を抱えていたにもかかわらず、
結果として勝ってしまうことがある、ということと解釈している。
言い換えれば、
勝っている中に、「負けの種」があるということである。
一方で「負けに不思議の負けなし」。
負けには必ず理由がある。
- 判断ミス
- 準備不足
- 慢心
- 構造的な欠陥
これらが積み重なり、
必然としての負けが生まれる。
ここには偶然はない。
多くの人は、
- 勝った=正しい
- 負けた=間違い
と単純に捉えてしまう。
しかし、この言葉はそれを否定する。
むしろ大切なのは、
- 勝ったときに「負けの要因」を見つけること
- 負けたときに「原因」を言語化すること
である。
ここに、私は「失敗学」の必要性を感じる。
負けには必ず理由がある。
だからこそ、本来は学びやすい。
しかし厄介なのは「勝ち」である。
勝ってしまうと、人は検証をやめる。
そして、勝ちの中にあったはずの「失敗の芽」を見逃す。
失敗学とは、負けを分析する学問ではない。
勝ちの中に潜む失敗を見抜くための視点である。
そして、ここに大きな落とし穴がある。
それは「成功の模倣」だ。
人は、誰かの勝った方法を見ると、
「これが正解だ」と思ってしまう。
しかし実際には、
その勝ちの中には、見えていない「負けの芽」が含まれていることがある。
その芽に気づかないまま、表面だけを真似するとどうなるか。
人の勝った方法を見て、
そこに実は負けの芽があったにもかかわらず、
表面だけを真似して、自分は負けてしまう。
こういうことが、現実にはいくらでも起きている。
なぜなら、その勝ちは
「不思議の勝ち」だった可能性があるからだ。
ビジネスや組織運営でも同じことが起きている。
- 売れた企画が再現できない
- 当たった広告が続かない
- 成功した営業が組織化できない
これらはすべて、
勝ちの中にある負けの要因を見ていないことから起きる。
では、どう考えるべきか。
勝ったときには、
「なぜ勝てたか」ではなく、
「なぜ負けなかったのか」を考える。
負けたときには、
言い訳を排除し、
負けの構造を分解する。
そして常に、
勝ちの中にある「負けの芽」を探し続ける。
勝つことは大切だ。
しかし、それ以上に重要なのは、
負けない構造をつくること
勝ちに酔わず、
負けを曖昧にしない。
その積み重ねが、
静かに、しかし確実に結果を変えていく。
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