◆「コタツ記事」
「コタツ記事」という言葉がある。
これは、自分の足で現場に行かず、
ネットや既存資料だけをもとに書かれた記事のことを指す。
いわば、
“暖かい部屋の中で完結する情報”だ。
最近の日本のメディアを見ていると、
ふと疑問を感じることが増えた。
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現場に行っているのか
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当事者に会っているのか
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関連書籍や背景まで読み込んでいるのか
そう思わざるを得ない記事が、少なくない。
テレビ番組やコメンテーターの発言も同じだ。
本来「コメント」とは、事実の上に成り立つもののはずだが、
時にそれは“想像”や“印象”だけで語られているように見える。
私は時々、こう思ってしまう。
「コメンテーターではなく、ゴメンデーターではないか」と。
あるとき、あるテーマについての記事を読んだ。
もっともらしい構成で、
それなりに整った文章だったが、
どうにも違和感が消えなかった。
よく読むと、
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現場の声が一つもない
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当事者の言葉が引用されていない
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情報源が、他メディアの要約だけ
つまり、「誰も直接見ていない話」が、
それらしく並べられているだけだった。
あのとき私ははっきり思った。
これは記事ではなく、“情報の再配置”に過ぎない。
かつては「コタツ記事」と言えば、
まだ資料くらいは読んでいる前提だった。
しかし今はどうだろう。
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断片的なネット情報
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誰かの発言の切り取り
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一次情報に触れていない言説
そうしたものが重なり、
もはや「コタツ以下」と言ってもいい状態にすら感じる。
私は、できる限り自分の足で動く。
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現場に行く
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当事者に会う
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一次情報に触れる
もしそれができない場合は、はっきりとこう言う。
「これは新聞記事の情報に基づく限定的な意見です」
情報の“出どころ”と“限界”を明確にする。
それが最低限の誠実さだと思っている。
そして今、もう一つの変化がある。
AIの発展だ。
便利になった反面、
誰でも“それっぽい文章”を書ける時代になった。
その結果、
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深掘りのないまとめ本
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体験の裏付けがないノウハウ本
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誰かの情報をなぞっただけの書籍
いわば「コタツ本」とも呼ぶべきものが、
確実に増えているように感じる。
これからの時代に問われるのは、
文章のうまさではない。
「どこまで現実に触れているか」だ。
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どれだけ歩いたか
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誰に会ったか
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何を見てきたか
その積み重ねだけが、
言葉に“重さ”を生む。
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