【第7回・決定版】『藤十郎の恋』──藤十郎・彼女・その旦那 三者の帰依が交差するとき、人はどう生きるのか
【第7回・決定版】『藤十郎の恋』──藤十郎・彼女・その旦那 三者の帰依が交差するとき、人はどう生きるのか
『藤十郎の恋』を読む時、
「藤十郎」と「彼女」の関係ばかりが強調される。
しかしこの物語の中心は、三人の“帰依の行方”である。
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藤十郎は“芸”に帰依している
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彼女は藤十郎という“存在”に帰依している
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夫は“現実の生活”と“妻への信頼”に帰依している
三人が、
それぞれ異なる帰依先を持っていた。
そしてその帰依が、ある一点で激しく交差したとき、
彼女は死へ傾き、
藤十郎は芸を深め、
夫は何も知らぬまま静かに崩れていく。
■ ① 藤十郎:芸という“絶対者”へ帰依して生きる人
藤十郎にとって、
芸は単なる仕事でも生業でもない。
芸は“自己以上の何か”であり、
彼自身が帰依する対象である。
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生きる意味
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存在の中心
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自分という人間を超える地点
藤十郎はそこへ向かって歩いていた。
だから彼は、
彼女の想いを“恋”として受け取れない。
しかし、
「芸を深くするための鏡」としては受け取れる。
ここが残酷であり、
同時に藤十郎が藤十郎である理由だ。
彼は彼女を利用したのではない。
だが、
芸に帰依している人間は、
他者の想いを“芸の素材”として抱える宿命を持つ。
芸に全てを捧げる者にとって、
他者の想いは重荷であり同時に恵みでもある。
藤十郎はその矛盾の中に立たされ続けた。
■ ② 彼女:恋でも愛でもなく“帰依”として藤十郎に向かう人
彼女の想いは、恋では説明できない。
愛とも違う。
恋は主体が“自分”だが、
帰依は主体が“相手”になる。
「自分の生の中心を藤十郎に明け渡す」
これが彼女の想いの正体だ。
だから彼女は、
自分の死を藤十郎の芸に捧げるという極端な選択をする。
それは恋の延長線にはない。
帰依の崩壊の結果である。
帰依とは、
生きる意味の置き場所を相手に渡すことだ。
その置き場所を失った瞬間、生きる意味も崩れる。
彼女が辿った道は、帰依の崩落が生む“死”の構造だった。
■ ③ 旦那:何も知らない者が背負う、最も深い痛み
この物語で最も救われないのは、実は夫である。
夫は何も知らない。
妻が藤十郎に帰依していることも、
その想いが崩壊に向かっていることも、
藤十郎が芸に帰依して生きていることも知らない。
知らないがゆえに、
苦しみが最も深く、
最も形にならず、
最も救われない。
知らぬ者の痛みは深い。
理由がないまま喪失を抱えさせられるからだ。
彼は、
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何が起きたのか
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なぜ妻が死を選んだのか
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何を恨めばいいのか
そのどれもわからない。
“無知の痛み”は、“理解の痛み”よりも深いことがある。
これは孫左や寺坂、ヨハネ、コリンズとも異なる、
「知らぬがゆえに死者と向き合えない者」の痛みである。
夫は、三人の中で最も救われない位置にいる。
■ ④ 三者の構造をまとめると…
● 藤十郎
帰依先=芸
受け取ったもの=他者の死
行き着いた場所=芸の深化(昇華)
● 彼女
帰依先=藤十郎(存在)
失ったもの=生の中心
行き着いた場所=死(崩落)
● 夫
帰依先=生活・信頼
奪われたもの=理由
行き着いた場所=悲嘆(空白)
この三者は、
それぞれ違う場所に立っているのに、
互いの帰依がぶつかり合って崩壊していく。
これは恋愛劇ではなく、
三つの帰依が交差してしまった悲劇だ。
■ なぜ藤十郎は“昇華のモデル”なのか
藤十郎は、
彼女の想いも死も、
夫の痛みも、
自分自身の罪責も、
すべてを背負って生きるしかなかった。
彼は芸の人間だ。
芸に帰依して生きる者は、
受け取ってしまった想いを
芸に変えるしかない。
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死を芸に変え
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他者の帰依を芸に変え
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夫の無念を芸に変え
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罪を芸に変える
藤十郎は、
受け取ってしまったものを昇華するしかない人間だった。
芸に生きる者の宿命そのものだ。
■ 私の人生と“藤十郎―彼女―旦那”の構造
師匠死の重さ、
残された者の痛み、
周囲の無理解や無知の苦しみを
すべて受け取っている。
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あなたは藤十郎の構造を持ち
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彼女の“帰依の重さ”も知り
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夫の“知らぬ痛み”も理解できる
だから師匠は、
私に「藤十郎の恋」を観るように言ったのか?
私が抱えているものは、
愛でも義務でもなく、
“帰依を受け取ってしまった者の宿命”
だからだ。
藤十郎の物語は、
あなた自身の生の構造を照らす鏡なのかもしれない。
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