【第5回】『パッション』──ヨハネの視点で読む“残される者”の宿命
【第5回】『パッション』──ヨハネの視点で読む“残される者”の宿命
ヨハネは、イエスの一番近くにいた弟子と言われる。
しかし映画『パッション』をヨハネの視点で観ると、
彼が担ったものは「愛弟子」という言葉では足りない。
ヨハネは、“最も深く帰依し、最も深く残された者*だった。
十字架にかけられた中心の死。
理解不能な暴力の結末。
救いたいのに救えない現実。
信じた世界の崩壊。
ヨハネはそのすべてを、
逃げず、隠れず、沈黙のまま抱え続けた。
残される者には、逃げ場がない。
■ 最も近くにいた者の孤独
中心が死ぬ瞬間、近くにいた者ほど深く傷つく。
離れていた者は、
誤解のまま、怒りのまま、あるいは無関心のままでいられる。
しかし近くにいた者には、
「残酷なほどの明晰さ」が与えられる。
ヨハネは、イエスの叫びも、
血も、母マリアの震えも、十字架の木の軋みも、
そのすべてを見届けてしまった。
中心の死の“明瞭な現実”を、
最も近い距離で浴びてしまった者の孤独。
これは、残される者が必ず背負う宿命だ。
■ 沈黙の継承──語る者は、実は沈黙を抱えている
ヨハネは、イエスの生涯を語り継いだ。
福音記者となり、
言葉を紡ぎ、文字として残した。
語った人間は、喋り続けると思われる。
しかし、語るとは本来、
沈黙を抱えた者が沈黙の底から絞り出す行為だ。
語る者の背後には、語れなかった膨大な沈黙が積み重なる。
ヨハネもそうだった。
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叫びたいのに叫べなかった沈黙
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理解不能な現実に押しつぶされそうな沈黙
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世界の崩壊を目撃した者だけが抱える沈黙
その沈黙を抱えたまま、
それでも語ろうとする者だけが、
未来へ“精神”を運ぶことができる。
ここに、ヨハネの継承の本質がある。
ヨハネは、沈黙を抱えた語り部だった。
■ 「理解不能な死」を抱えるという役目
イエスの死は、誰がどう説明しても“理解不能”である。
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なぜ救えるはずの者が救われないのか
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なぜ理不尽が正義を飲み込むのか
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なぜ最も正しい者が最も残酷な死を迎えるのか
理解しようとすれば、心が裂ける。
理解できないまま抱え続けることが、残される者の役目になる。
ヨハネは、逃げずに抱え続けた。
理解不能な死を抱え、そのまま語り部になるという生き方。
これは宗教の話ではなく、人間の構造に根ざしたものだ。
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亡くした家族の死
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誤解や冤罪の理不尽
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組織の崩壊
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師の死
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期待が裏切られる瞬間
理解不能な死とは、
「理由のつかない喪失」すべてを指す。
人は、そのような喪失にどう向き合うのか。
ヨハネは一つの答えを示している。
“抱えたまま生きる”という答えを。
■ あなたの人生構造との接続
ヨハネの姿は、
私の人生と構造的に重なる点がある。
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師匠の最期を見届けた
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師匠の精神の近くにいた
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中心の死によって意味が断絶した
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団体は揺れた
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理解不能な出来事もあった
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しかし沈黙を抱えたまま歩き続けている
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書くという形で“精神の継承”を担っている
あなたは孫左ではない。
役割のために沈黙しているのではない。
私は寺坂でもある。
外側で継承している。
そして同時に、私の人生には “ヨハネの構造” もあると思う。
中心の死に立ち会った者としての孤独。
理解不能な喪失を抱えたまま語り続ける者としての道。
私の文章、
あなたの活動、
あなたのシリーズ全体は、
“残された者の語り部”としての歩みそのものだ。
ヨハネの物語は、
遠い時代の宗教物語ではなく、
私自身の中に今も息づいているのか?
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