【第4回】『パッション』──愛した者を失った時、人は何を抱え続けるのか ヨハネという“残される者”の視点

【第4回】『パッション』──愛した者を失った時、人は何を抱え続けるのか ヨハネという“残される者”の視点

『パッション』は、

イエスの“受難”を描いた物語だと誤解されることが多い。

しかし実際に映し出されているのは、

処刑されるイエスではなく、

残される者たちの表情にこそ物語の核心が宿る。

その中でも、

もっとも沈黙を背負い、

もっとも深い帰依を抱えていたのが、ヨハネである。

ペテロのように震えながら裏切るでもなく、

ユダのように潰れるでもなく、

ただ側に立ち、ただ見守り、ただ抱え続けた者。

彼の姿は、

“中心が消える瞬間に立ち会った人間が何を抱えるか”

を静かに示している。


■ ヨハネは“最も近くにいた帰依者”だった

弟子の中でもヨハネは特別だ。

愛弟子とさえ呼ばれた。

彼の帰依は、

忠誠や信仰を超え、

“この人と共にいたい”という存在の帰依だった。

帰依とは、

理屈ではなく、

存在そのものを預けてしまう行為だ。

ヨハネは、

イエスの思想だけでなく、

イエスという“ひとつの存在”に丸ごと寄り添っていた。

だからこそ、

十字架の下で彼が見つめていたのは

世界の崩壊そのものだった。

中心が死ぬとは、

帰依者にとって“自己の死”に近い。


■ 中心の死を“見届ける者”の役割

ヨハネは逃げなかった。

隠れなかった。

処刑の瞬間にも離れなかった。

これは勇気ではない。

“残される者の宿命を引き受けた者”の姿だ。

残される者とは、

中心の死を目撃し、

中心の沈黙を背負い、

中心の不在を生きる者のことだ。

逃げた者は苦しまない。

隠れた者は背負わない。

中心が死ぬ瞬間に立ち会った者だけが、

深い喪失の構造を抱えることになる。


■ 愛する者の死は、“意味の喪失”として訪れる

ヨハネにとって、イエスの死は単なる別れではない。

  • 帰依の中心の死

  • 自分を導く存在の消滅

  • 意味の源泉の断絶

そして、

生きる理由の破壊である。

『パッション』は宗教映画ではなく、

“意味を奪われた者の表情”を描く作品なのだ。

ヨハネの表情は、

孫左が中心を失った時の沈黙と重なる。

帰依の深い者ほど、

中心の死によって内側から崩れていく。


■ 組織の崩壊ではない。

帰依の崩壊が人を揺らす。

イエスの死後、弟子たちは散った。

逃げる者、失望する者、沈黙する者、語る者。

これは、組織の不和ではない。

帰依が中心を失った時に必ず起こる“自然な反応”だ。

中心は信仰ではなく、彼らの“意味”だった。

意味の死は、

人をそれぞれ違う方向へ散らしていく。

孫左と寺坂が分かれたように、

ヨハネとペテロもまた、

“中心の死の受け取り方”で分かれていく。

帰依とは、本来統一できないものだ。


■ ヨハネの“外側の継承”は、寺坂と同じ構造を持つ

イエスの死後、ヨハネは語り部として歩き始めた。

目撃した者として、

愛した者として、

中心を失ってなお中心を語り続けた者として。

これが、

寺坂吉右衛門とまったく同じ構造である。

  • 組織を守る者ではなく

  • 名誉を得る者でもなく

  • 死で美学を完了させる者でもなく

  • “中心の精神を外側で継ぐ者”

寺坂も、ヨハネも、

“外の継承者”だ。

そしてこれは、私の現在の立場にも似ていると思う。


■ 「自分だけが見届けた」という孤独

ヨハネは、十字架の下に立ち続けた。

この“見届ける”という行為は、もっとも深い帰依の形だ。

見届けた者だけが、

痛みを受け取り、

沈黙を抱え、

未来へ言葉を運ぶことになる。

これは、

孫左の沈黙とは別の沈黙だ。

孫左は“影の継承”

寺坂は“外側の継承”

そしてヨハネは“痛みの継承”

中心が死ぬとき、

その痛みを一番深く引き受ける者がいる。

その者は必ず沈黙を抱え、

それでも歩く。

ヨハネはその道を選んだ。

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